本日は、非医療者の方でも分かるようなメッセージです。
「病院で行われる最期の時についての葛藤」をお話ししていこうと思います。
入院する時によくある書類
若い人であれば「入院しても元気に帰っていくのが当たり前」と思っているかもしれません。
ですが、入院すると本当に本当に思いもよらぬことが起きます。
特に高齢者では、「死亡」という1番悲しい結末を迎えることもあります。
中には入院した時はそこまで具合が悪くなく「念のために入院しよう」だったのに、みるみる状態が悪くなってしまうことも経験します。
当たり前のことですが、人間はいつか必ず死にます。
そして医療にも限界がありますし、避けられない事実です。
そこで医療現場では、心臓が止まった時に心配蘇生をするかしないか事前にサインを求められることがあります。
こちらの和歌山市で推奨しているものが、構成は近いです。
救急車で運ばれる時の事前の意思表示ですので、使うタイミングが違いますが書類は似ています。

この書類はあくまで搬送される前にどう思うか、なので今回の話とは全く別です。
この取り組み自体を否定する意図は全くありません。
ただこのフォーマットに似た書類が病院でも良く使われています。
どうでしょうか。
自分の家族に関して「望まない」にサインするの、怖くないですか?
世の中の同意書文化
最近は入院すると、驚くほどの量の書類にサインを求められます。
検査をするための書類、処置に際しての書類、入院生活に際しての書類、そして心臓が止まった時についての書類も。
それは昨今の訴訟を恐れる文化があるゆえに、「同意書ファースト」の運用になっているからです。
和歌山市の取り組みのように自主的に記載することは別として、このような選択を強制することは、非常に残酷ではないでしょうか。
例えば95歳の母が意識がなくなり、入院したとしましょう。
家族としては以下のような責任感を抱くのではないでしょうか。
①少しでも長生きして欲しいと願うべきではないか
年齢を考えると大往生だし、家族としては十分生きたように感じる。
だが「蘇生しない」という選択肢を家族が選んで良いのか。
公序良俗に則れば「命を繋いで欲しい」と主張すべきではないのか。
「蘇生をしなくて良い」と選択することは、家族として不義理な行為にならないのか。
②死に目に会いたい
もし蘇生行為をしなければ、死に目に会えないのではないか。
家族が知らない間に亡くなってしまうことを、進んで選んでしまっても良いのだろうか。
このように「蘇生をしない」と言うことに対しても不安を覚えることもあるでしょう。
上記の不安に対する自分の答えとしては以下です。
①あくまで「患者の意見」を教えてください
あくまで本人に聞きたいのですが、本人が話をできない状況です。
ですので「本人であればどう答えるか」を前提に教えてください。
決してご家族の判断を強要しているわけではありません。
②死亡確認のタイミングはなるべく配慮します
心臓が止まってしまうこと(生き物としての死亡)は本人のタイミングですので、神様の匙加減です。
ただ医療者がご家族の立ち合いのもとで死亡確認すること(社会的な死亡)は、ご家族や会わせたい方の到着を待つこともできます(限度はありますが)。
つまり、「蘇生をしない」という選択自体は妥当な場合もあります。
繰り返しですが人間はいつか死ぬ生き物ですので。
問題を感じるのは、たいした説明もなく無機質にここにサインを求める医療者がいることです。
今はだいぶ減ってきているとは思いますが。
さらに本音を言えば、入院に際してこんな書類いらないと思います。
重要なのは医療者と患者家族の同意形成であり、心臓が止まってしまうことも想定して話し合っておくことです。
その結果はきちんと説明しカルテに書けば良いのであって、今までその記録を元にしてトラブルになったことはありません。
むしろ良くわからずサインさせられた書類をもとに行動決定される方が、よっぽど患者や家族としては違和感を抱くのではないでしょうか。
本来は家族に決めさせるのではなく、医療者も含めてみんなで相談し決定していくことが重要なはずです。
それがこの無機質な紙にサインする形になると、まるで家族が全ての責任を負わされているような気がしてしまうのは自分だけでしょうか。
医療者の間でも、だいぶこの辺りの認識は改められていますが、非常にナイーブなところでもあり難しさが大きい分野です。
自分としては最期の時は、書類のサインを元にするのではなく、本人の人生観を踏まえた決定にして欲しいなと思っています。
皆様はどう感じましたか?
本日はこの辺で、ではでは。

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